ラジオドラマ制作にかかわって2,3

「海へ」がすんで、もうこれくらいの長尺ラジオドラマをつくるのも最後になるのかなという感じもしている。個人的な課題だったテーマにもケリがつき、編集や演出面もかなり満足がいった。正直、持てる気力を使い切ってつくった「二月は短い夢」が完成した時点で、ラジオドラマ制作への意欲はピークを過ぎてさめてしまったような感じもして、「海へ」はネタが余ってたから書いたという感じ、ブレーキが利ききらなかっただけという感覚もある(おかげで下手なこだわりなく早く書けたのは確かだけど)。

 まあでも北放連のあとでモチベーションも戻ってまだ作品作りてえなあと思ってもいるので、今一度自分の考えというか作品制作、とくに脚本に関しての姿勢みたいなのをはっきりさせておきたいなというのがあって、なんかこういうのを書いている。べつに誰かに指南とかをしたいわけではなくて、ぼくはぼくでこういう方針があるので、それを自分のためにはっきりさせておいて、まあもし誰かが読んでためになるならそれ以上はないなあと思っている。

 

1.まず書きはじめる
 だいたいプロットとかいうのはあてにならない。書かなくてもいいんじゃないかとすら思う。旅行に先立ってどれだけきっちり計画を立てても2,3の対処できないトラブルが発生するように、いやこれはちょっと違って、どっちかっていうと、どれだけガイドブックを読みこんでも現地の雰囲気がわからないように、実際に書いてみないで皮算用をしているのはあんまり意味がない。
 何が分からないのかというとたとえば登場人物のセリフ回しで、脚本を書いているとき誰しもある程度キャラクターのロールプレイをしているような感覚に、自ら陥るものだと思うけれど、そいつがどんな語彙を使うのかどんな口調なのか、の理解は一定以上のロールプレイののちにしか得られない。

 どれだけ先に決めておいたとしても、それは必ず自分の癖やらストーリーの都合やらと衝突して無理が生じる。極端な例でいえば、真面目くさったキャラだけどギャグを言わせてやったほうが面白いなとか、バカキャラだけどここでは滑らかにあれこれ説明してもらわないとストーリーの進みが悪いとか、語尾にニャつけるの忘れてたとか、なんかそういう。

 台詞回しに限らず、キャラの設定にしろ、舞台設定にしろ、そういう無理が生じたとき、すぐにストーリーかキャラ設定を変更するためにはやっぱりプロットをガチガチに組んでると小回りが利かない。一個設定を変えたら全編書き直さないといけないとか言うのもざらにあって、プロットだけ完璧に組んで書くことは決まってるからギリギリまで書かなくていいとか言って口笛吹いてるとこういう修正がきかなくて結局最後妥協が生まれてしまう。それなら早めに書きはじめてしまったほうが良いと思う。

 ラジオドラマというのは音楽や小説と同じ時間芸術なので、書いている間・聞いている間に人間が受け取れる情報はそのとき書いた言葉・聞いた音それのみであって、このことはどれだけプロットで全体の構成(そもそも時間芸術においてこういうものは疑似的にしか存在しないんだけど)を俯瞰したところで揺るがない。

 べつにプロットを組むこと自体は悪い事じゃないけど、話の進む方向や勢いみたいなものをみながら逐一いじくっていけるような曖昧さをのこしたものでなければ存在価値がない。それはもうわざわざ書き出さなくても頭でおぼえておけばいいんじゃないのか。

 

2.できる限り会話文で進める
 これはまあひとそれぞれあって一概には言えないが、あくまでぼくの態度として。

 ラジオドラマは会話を聞かせるものだと、まあ基本的には考えていて、そもそも単純に同じ声しか聞こえない音声作品は退屈になりやすい。演者のほうの力量も結局その予め決められている会話をどれだけその都度その都度考えたことのように話せるかみたいなところなんだと思うし、そこいくとモノローグのむつかしさはまたなんか違うなあと収録してもらうたびに思う。

 もちろん設定の説明を会話でやるのは限界があるのでモノローグを使うとか、重要なシーンは情感のこもった長台詞や心の声の独白で乗り切るとか、そういう技法もたしかに重要だけど、これはいわば必殺技みたいなもので、乱発するのは効果的じゃない。ひたすら同じ声のモノローグやキャラの長台詞独白が続くラジオドラマは、内容が面白ければ乗り切れてしまうのも確かなんだけど、形式としては退屈というか不完全なものだ。
 自分に対しての指南っぽいことを書けば、何行にもわたる長台詞・会話文中に挟まるモノローグは極力避けるべきとしてしまってよいかなとは思っていて、少なくとも、使ったらちゃんと、あー使っちゃったな、と考えたほうがよい。無理して減らす必要もないとは思うけど、必要がないなら、設定の説明は会話文に盛り込むとか、情景はSEに任せるとか、心情の描写はト書きだけしておいてもう演者に任せてしまうとか、そういう処理で済ませた方がよい。脚本の完成度や演者のやりがいの幅みたいなものもこれで出てくる。

 

3.既存のものを目標にしない

 これはなんかラジオドラマに限った話ではなくて創作全般に言えることで、プロにとっては大前提であっても素人にとっては至上命題になる。まあつまりたとえばいくら火の鳥に感銘を受けたからと言って「じゃあ火の鳥みたいなやつを書こう」となるのはよくないということで、演技の場合はこれが、監督から「早見沙織みたいに読んでください」とは言わないほうがいいということになる(まあ演技指導はかなり面倒な作業だしこういう説明が一番楽なのである程度は仕方ない面もあるが)。

 とはいえ初めて2,3年のアマチュアが完全なオリジナルを目指して書くというのはどだい無理な話であって、たいてい面白くないからやっていないだけの禁足地に足を踏み入れるか、自分でも意識せずにうっかりドラえもんとか鍵作品とかをパクってしまうことになる。で、まあ、ぼくも上みたいなことを書きながら、今回だったら星新一ブラッドベリといった、過去に読んできた小説のオマージュ(まあ、パクリなんだけど)を出発点にしたわけだけど、そういうオマージュはあくまで自分の書きたいものを目的としたときの過程と割り切ってきた、つもりだ。

 目的をちゃんと自分自身の衝動に任せて、それを、いくら近いからと言って他人の作品にぶらしてしまわないという、それさえ守れてしまえばどれだけ設定や要素を他から持ってきてもよいのだと思う。もしくは、目的が他人の作品にあるのであれば「それをどこか一点でいいから越えよう」とする、そこまでは言わなくてもその作品の内容を自分にとって重要な命題や疑問と関連づけて咀嚼する必要がある。

 書いてて気づいたけどこれはなんか作品の出来不出来ではなくて倫理観の問題だ。ドッチラケなことを書くようだけどアマチュアの創作でどうせすごいものは作れないのだから、せめて健全な意識のもとで創作していたいなと思うんだろう。

 

 なんかこんなかんじです。次回作のことを考えながら寝ます。